重い扉を開けると、いきなり静寂が取り囲む。天井に達するまで古色蒼然たる洋書が並ぶ神保町・北沢書店には、まったく別の時間が流れていた——比較文学者・四方田犬彦さんが、1970年代に洋書を買い歩いた東京と、半世紀ぶりに訪ねたその店を綴ります。(『本の街』2026年5月号「わたしの古本修行」第九回)

――どんなに疲れて帰ってきた夜でも、その日のうちに買ったり届いたりしていた洋書は、かならず目次と索引に目を通しておきたまえよ。
大学時代の師である英文学者U先生(連載第五回目を参照)の言葉である。先生から習ったことはかぎりなく多いのだが、難しい英詩の解釈や文学理論のことは別にして、この教えは深く心に刻まれ、いまだに忘れることがない。ただときおり、眼前の雑事に心煩わされ、洋書を買うことを怠ったとき、半世紀前に先生がなにげなく語った言葉が思い出され、背筋をまっすぐに伸ばさなければいけないと、わが身を反省するばかりだ。
1970年代、東京の洋書店
それでは1970年代、大学から大学院へと進んでいた頃のわたしは、東京のどこで洋書を買っていただろうか。英語は取り寄せ注文するのが新宿東口の紀伊国屋書店。ブラッと立ち寄って思いがけない本を見つけ、発作的に買ってしまうのが銀座のイエナ書店。まるで生きのいい魚が並んでいる魚屋のように、映画関係で面白い新刊がいつも並んでいた。フランス語は西新宿のフランス図書。中国語は内山書店。その当時はまだハングルが読めなかったので、韓国語の書籍を買うことはなかった。
神保町の北沢書店は、こうした洋書店のなかでちょっと違う位置にあった。大学の宗教学科研究室では誰もが気楽に、それだったら北沢を見てきたらとか、こないだ北沢にこんな本があってねといった会話をしていた。後にネパールの少女神について研究する植島啓司や、人類学を派手派手しい広告産業にしたのに功あった中沢新一のような大学院生のことである。これは負けてはいられないと、わたしもさっそく北沢の門を潜ることにした。
まったく別の時間が流れていた
重い扉を開けるといきなり静寂が取り囲む。一年中夕暮れ時のような薄暗い空間に、天井に達するまで古色蒼然たる本が並んでいる。そこが世俗の外界から遮断された、まったく違う、厳粛さをもった世界であることが感じられた。北沢書店にはわたしが知らなかった、まったく別の時間が流れていた。18世紀の文人の全集を完結させるのに平然と半世紀を要してしまうような、英書の長大な時間である。

わたしが最初に購入したのは、ボーリンゲンから刊行されているC・Gユングの英訳全集だった。大学時代に図書館から借り出しては読み切れず、いくたびも同じ巻ばかり借り出していたものを、半年分の奨学金が振り込まれたので一気に十巻ほどを購入したのである。その後もケレーニーやエリアーデなど、神話学宗教学の書物はもっぱらここで買い揃えていた記憶がある。
ふたたび、北沢書店へ
それから幾星霜が過ぎ、インターネットで海外の書籍を簡単に註文できるようになってからは、街を歩いていて洋書屋に入り、見知らぬ書物を手に取ってみるということがすっかりなくなってしまった。というより前に、フランス図書もイエナ書店もなくなってしまった。コロナ・ウイルス騒動が鎮静化して久しぶりに飛行機でパリを訪れたが、かつて足しげく通ったカルチェラタンの小さな書店がずいぶん消えてしまっているのを知り、ああ、戦争が通過していったんだという気持ちを抱いた。
久しぶりに北沢に寄ってみようと思ったのはそんな時である。ひょっとしてこの偉大なる洋書屋も消えていたりしたらどうしよう。心には一抹の不安があったが、実際に足を運んでみると、北沢書店は昔日のごとく、静謐なる佇まいを見せて残っていた。一階が「ブックハウス・カフェ」になっていたことを除けば、半世紀前と少しも変わっていない。中世の修道院さながらである。棚にはユングの『ツァラトゥストラ講義』二巻本が並んでいる。わたしはこれまでその存在すら知らなかった1930年代の講義録で、全集完結後に刊行されたものだろう。
(四方田犬彦・比較文学/『本の街』2026年5月号「わたしの古本修行」連載第九回)
四方田犬彦(よもた・いぬひこ)
1953年生まれ。比較文学者・映画史研究家。東京大学で宗教学、同大学院で比較文学を学ぶ。明治学院大学教授を長く務めた。著書に『日本映画史110年』『ハイスクール1968』など多数。『本の街』では「わたしの古本修行」を連載中。
▶第十回はこちら:「靴紐を結ぶ値打ちもない」――古本屋の棚で出会った、若き日の自分
この記事は、神田・御茶ノ水・神保町の地域交流サロン誌『本の街』2026年5月号(Vol.13)に掲載されたものです。ほかの記事もあわせて、PDFで全文をお読みいただけます。
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