「靴紐を結ぶ値打ちもない」――四方田犬彦が古本屋の棚で出会った、若き日の自分【わたしの古本修行 第10回】

「靴紐を結ぶ値打ちもない」――四方田犬彦が古本屋の棚で出会った、若き日の自分

古本屋の棚で、自分が若い頃に書いた本が澁澤龍彦や種村季弘の隣に並んでいるのを見つけてしまう。「彼らの靴の紐を結ぶほどの価値もない」——比較文学者・四方田犬彦さんが、1960〜70年代に「異端」の海外文学が次々と翻訳された時代とともに綴ります。(『本の街』2026年6月号「わたしの古本修行」第十回)

ふと知らない古本屋にブラリと入り、ぼんやりと棚の前に立っている。

ああ、この本はうちにあるぞ。あれ、昔はこんな装丁で出ていたんだな。しばらく棚を眺めているうちにさまざまな思い出が到来し、心は時間の迷路のなかに迷い込んでしまう。

仙花紙本の時代

戦争が終わるとまもなく、雨後の筍のように小さな出版社が現われた。戦時下ではとても出せなかった文学書の翻訳が次々と現れることになった。仙花紙本といって、屑紙や古紙を漉き直した紙に刷られたこれらの本は傷みが激しく、80年近い歳月の後では、棚から取り出すにも注意が必要だ。不用意に扱うならばボロボロと崩れてしまいかねない。けれどもそこにはノヴァーリスもあれば、江戸川乱歩もあった。わたしの心に浮かぶのは、戦時中に書物に餓えていた者たちがそうした粗末ななりの新刊を、あたかも解放の徴であるかのように貪り読んでいる光景である。

「異端」の海外文学が読まれていた頃

1960年代の後半から70年代にかけては、また別の光景が見られた。岩波文庫の正統教養路線や新潮文庫の名作路線からは、平然と零れ落ちてしまうような「異端」の海外文学が次々と翻訳され、これもまた次々と現れ出た小さな出版社から刊行されるようになった。後に幻想文学ブームを引き起こすことになった出版の、いうなれば前哨戦である。

種村季弘『ナンセンス詩人の肖像』竹内書店・1969年刊の書影
種村季弘『ナンセンス詩人の肖像』(竹内書店・一九六九年刊)

もっとももうこの時は仙花紙ではない。日本は立派に経済復興を遂げていた。美術家が古色を真似た匣をつけたり、オブジェとして魔術的な雰囲気の装丁を施したり、意図して本は立派に通用するようなものが少なくなく、一冊一冊がアートとして扱われても不思議はないところがあった。当時少部数であることもあって、けっして安価ではなかったが、高校から大学に進むころに次々と刊行されていくバタイユ著作集や澁澤龍彦集成を、わたしは無我夢中になって取り揃え、読み耽った思いがある。それは現在にまで到るわたしの知的形成に、決定的な影を落としている。

自分の本が、彼らの隣に並んでいる

古本屋の棚を眺めているとさまざまなことが思い出されてくる。高校時代に新刊で手に入れた翻訳小説にとんでもない値段がつけられていたり、その新装版の表紙がいかにも凡庸で、ああ、もう文学書に匣をつける習慣はなくなってしまったのだなあと、感慨に耽ってしまったりする。

しかしそれ以上にわたしの心を落ち着かなくさせることがひとつある。それは自分が若くして書いたエッセイ集や翻訳が、澁澤龍彦や種村季弘、中井英夫といった人たちの書物の隣に並んでいることを発見したときだ。

これは恥ずかしい。こんなところを人に見られたらどうしようという気持ちが、まず先に立ってしまう。高校時代に懸命に読み耽り、その書物を通して見知らぬ西洋人の芸術家や文学者の名前を知ったという著者たち、わたしにとっては高貴にして神聖なるエクリヴァンの人たちの隣に、ずっと遅れて彼らの顰に倣いながら書きだした自分の著書が置かれている。いったい世間様は、文筆家としての彼らとわたしを同じカテゴリーだと見なしているのだろうか。

もちろんわたしは澁澤さんや種村さんから大きな影響を受けた。けれどもいまだにエッセイストとしての自分など、彼らの靴の紐を結ぶほどの価値もない存在だと思っているのだ。

(四方田犬彦・比較文学/『本の街』2026年6月号「わたしの古本修行」連載第十回)

四方田犬彦(よもた・いぬひこ)
1953年生まれ。比較文学者・映画史研究家。東京大学で宗教学、同大学院で比較文学を学ぶ。明治学院大学教授を長く務めた。著書に『日本映画史110年』『ハイスクール1968』『われらが〈他者〉なる韓国』など多数。『本の街』では「わたしの古本修行」を連載中。

▶第九回はこちら:ネットで本が買える時代に、なぜ人は洋書店へ行くのか――神保町・北沢書店


この記事は、神田・御茶ノ水・神保町の地域交流サロン誌『本の街』2026年6月号(Vol.14)に掲載されたものです。ほかの記事もあわせて、PDFで全文をお読みいただけます。

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この記事を書いた人

神田・御茶ノ水・神保町の地域交流サロン誌『本の街』編集部。1980年創刊。毎月10日発行、加盟店を中心に60か所以上で無料配布しています。

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